Re.「S高原から」

先日、無事千穐楽を迎えることができました、SARPvol.19『S高原から』。まずは劇場にお越し頂いた皆々様、本当にありがとうございました。そして、残念ながら劇場でお会いできなかった皆々様、お目にかかれなかったことを悔やみつつ、またいつかお互いに万全の状態で巡り合えればと願っております。兎にも角にも、皆々様の応援のおかげで、本公演は何とかここまで辿り着けました。

 

約3週間の稽古期間+4日間の上演期間、どっぷり作品世界に浸りこんでいたせいか、あんまり記憶がございません。おかげで筆の進みは遅いですが、それでも浸りこめる作品世界があるというのは本当にありがたいことです、本当に。

「お芝居ができるありがたみ」穴が開くほど感じました。

心身共に健康な創作環境を保つために、稽古場では様々なケアがなされていました。感染症の予防対策はもちろん、ハラスメント対策の講習会やミーティングも開かれ、「他者と作品を創る」とはどういうことか、今一度考えさせられました。

お芝居の内容に関しても、演出の山内さんご指導の下、じっくり作品と向き合うことができました!

 

 

風立ちぬ、いざ生きめやも」

作品をご覧頂いた方や、『風立ちぬ』を読まれた方の中には、この言葉の意味が気になったという方もいらっしゃるかもしれません。

作品のあらすじ等々につきましては、他メンバーのブログにもございますので、今回は、公演を通して私なりに考えたこの言葉の意味についてダラダラと綴らせて頂きます。筆は2回生の椙田です。片手間にでもお付き合いください。

 

「生きめやも」という表現には反語が含まれてますので、意味としては「生きようか、いや生きない」とか、「生きたいか、いや生きたくない」みたいな感じで、結局死んじゃうことになっちゃってるんです。悲しきかな…。この言葉自体は、『風立ちぬ』を書かれた堀辰雄さんがフランス語の詩を日本語に訳されたものだそうです。

ネット上でも、「これ矛盾してますやん、誤訳なんとちゃいます?」みたいな感じで、結構騒がれてます。今回の作品の中でも、登場人物たちがこの言葉の意味についてあれこれ議論したりしてます。

椙田君は考えました。別に考えたからって演技に役立つわけではないでしょうが、面白そうだったので考えました。

そして、「この”矛盾”こそ人間の本質なのでは!?」という大っきな仮説に辿り着きます。如何にもイタい男子大学生の考えそうな事ですね。恐ろしいです…。

つまり、「死を意識して生きる」という人間の特性を表しているのではないか、と。言い換えれば、「自分が確実に死ぬと解っていながら尚生きている」という矛盾です。どうせ死ぬんだから生きたって意味無いのに…。

余談ですが、椙田君は初めて虫を殺した時のことを未だに忘れられません。そこで初めて”死”と”時間の流れ”を認識した椙田君は、10代に差し掛かるまで一人で眠れないほどそれらを恐れていました。(泣きながら母と寝たもんです、お恥ずかしい。)

いつか自分に確実に訪れる”死”。それを恐れる人もいれば、そこに救いを見出す人もいます。「どうせ死ぬなら好き勝手やったろ」と”瞬間”を求める人もいれば、宗教や科を信仰し、”永遠”に焦がれる人もいます。でもでもやっぱり、人間は”死”によって生かされています。それが無くては、あらゆる営みは色を失います。”死”を意識して初めて、我々は”生”を謳歌することができるのです。

 

風立ちぬ、いざ生きめやも」

「風が生まれた、さぁ、生きようか、死を目指して。」

 

……みたいな?(くっせぇなオイ…)

 

そもそも日本語に訳される前のフランス語の詩は「風が立った、生きようと努めなければ」という意味なのだそうですが、椙田君個人は堀辰雄さんの訳された日本語バージョンの方が好きです。桜の儚さを愛でるような日本人らしい感性がザワザワと感じられます。

 

椙田君の独り言はこの辺でおしまいなのですが、この内容は今回の作品とは特に関係はありません。もしこのブログの内容(生き死にに関する内容)で不愉快な思いをされた方がいらっしゃいましたら、心よりお詫び申し上げます。

 

それでは、またお会いできる日を楽しみにしています。

 

 

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